2010年8月15日日曜日

誰を助けるべきなのか

政治的な問題を議論しているとぶつかることが多い
たぶん僕は少し"やさしくない"考え方なんだと思う

例えば、格差の問題
格差の原因の根本を考えれば、
基本的にはいわゆる大人になるまでにどれだけ努力してきたかの差が
社会における地位の差になっていると考えている

もちろん例外もあるし、努力量と結果は比例しないだけに
すべてそれが正しいわけではないが、
実体験に照らし合わせれば、

それなりに努力してきた人間は
それなりの生活ができる状態になっている

格差が問題だ、困っている人間をなんで助けない
といわれれば、自分の回答は簡単だ

「そんな状態を招いたのはその人自身だから」

だいたいそういう人間は、
僕らが必死で勉強していた学生時代に遊んでばかりで
何も努力しなかった人間だし、
努力してこなかった結果、自分が困ったら助けてくれなんて都合がよすぎる

こういう話がでると、必ず出てくるのが
学校に行きたくたって行けない人もいるという話

それもちょっとおかしくて、
少なくとも日本は中学校までは義務教育があって、
他の国に比べたら教育を受けるというチャンスは多分にあるはずだ

もちろん高校、大学にだって奨学金を使えばいけるはずで、
そういった努力をしてこないで、助けてくれって言うのはちょっとおかしいと思う

中には、お金の問題ではない家庭の都合でいけない人もでてくる、
それは確かでそこの視点が欠けているといわれれば欠けている

でも、誰を助けるかっていう議論と
セーフティーネットをどう作るかという議論は別物の話で

そこを混ぜて話すから議論が発散するのだ

僕は努力しなかった結果、困ったことになる人を助ける金があったら、
努力したくてもできない人を助けるためのセーフティネット作りに金を使え
と言いたいだけなのだ

誰も助けない、自分の稼ぎは自分のものだといっているのではなく、
誰を助けるべきなのか、なぜ助けなければいけないのかの議論もなしに、
誰でも彼でも助けましょうと言ってられるほど日本はお金持ちじゃない

困った人を助けましょう とか
競争はよくない とか
格差をなくしましょう とか

メディアにあおられてちゃんとした議論もなしに
それに乗ってしまう人の多さに危機感を覚えてしまう


2 件のコメント:

  1. 言ってることは間違いじゃないと思いますが、なにかしっくりしないところもあると感じる方も多いんじゃないでしょうか。

    たとえば「努力する人」を助ける理由にしていますが、この努力ってことも後天的なものであるとするならばやはりそこのところは努力するように仕向けることにもお金は使ってよいのだと思います(助けてよいのだと思います)。


    といいますのもやはり「努力する」こと自体が恵まれている家庭環境からの習慣づけということが多いのではないかと思われるからです。

    これはいま流りのサンデル教授の白熱教室でも触れられておりましたが。

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  2. >匿名さん
    コメントありがとうございます。

    ご指摘ごもっともです。
    「努力する」習慣づけやそれ以外にも家庭環境によっては、本人の意志の及ばない(選択できない)部分が影響するもの事実だと思います。

    ただ、こういった議論がないままに何でも助けようとする政府のポピュリズム、メディアの扇動に乗ってしまう状況はかなり危険な状況なんじゃないかと思います。

    竹中元大臣がよく言っている言葉ですが、
    Polcy to helpとPolcy to solve
    をしっかり分けて考えないといけないと思います。

    もちろん昨今のような大恐慌の際に
    Polcy to helpが必要なのは理解できますが、
    いつまでもHelpしているだけでは、
    なんの解決にもならないということも事実です。

    今回のコメントでいただいた内容で言えば、
    努力するように仕向けるお金の使い方をする一方で、
    どうしたら「努力する」という習慣を
    家庭環境に依存せずにできるようになるか、
    という事が重要なんだと思います。

    もしかしたら、それは学校教育で解決できるのかも知れないし、他に解決策があるのかもしれません。

    だからこそ、しっかりとした議論の上に政策の方向性を決めていくべきなんだと思います。

    こういった議論がもっと様々なところでできると非常にいいのになと思いますので、今後もどしどしご指摘いただければと思います。

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